ダーク ピアニスト
〜練習曲2 ゴールドフィッシュ〜

Part 1 / 3


 「ねえ、僕、外に行って遊びたい」
ルビーが言った。北フランスの小さな街。そこはホテルの一室だった。
「ねえってば。ねえ、いいでしょう?」
書類に目を通しているジェラードの周りを行ったり来たりしながら覗き込む。
「チップをあげたろう? ゲームでもして来なさい」
ジェラードは書類から目を離さずに言った。
「もう飽きた! それに、もう全部使っちゃった」
と駄々をこねるルビー。
「仕方のない子だね。ギルフォート。この子に追加のチップを渡してやってくれないか?」

ギルは奥のデスクでパソコンを操作していたが、ちらとこちらを見ると立ち上がった。が、彼が何か言う前にルビーが言った。
「いらないよ! 僕は外に行きたいんだ! もう3日もここにいるんだよ? 僕、疲れた! 僕、面白くないもん! 外に行って遊びたい!」
「ほんとに困った子だね。先方の予定がずれてしまったんだから仕方がないだろう? 後一週間はここにいるよ」
ジェラードの言葉にルビーはジタバタと暴れて言った。
「そんなのやだ! ここは退屈過ぎるよ! 何もないし、やる事ないし、いつも僕だけのけものにしてさ。散歩くらい行ったっていいでしょう?」
「散歩だけならな。騒ぎだけは起こすんじゃないよ。ここで大事な取引をしなくちゃならないんだからね」
ジェラードがなだめるように言った。

「それじゃ、行ってもいいんだね?」
パッと目を輝かせてルビーが言った。
「ギル、この子に迷子札を持たせてやりなさい」
という言葉に彼は頷いてルビーの首にチェーンを掛けた。ペンダント状になったロケットの中に、ホテルの名前と連絡先が書かれたメモが入れられていた。
「これがあれば迷子になっても大丈夫だね?」
とにこにこしているルビーにジェラードが苦笑する。
「はは。迷子にならないことが最も大事な事なんだよ。坊や」
「うん。わかった。僕、迷子にならないようにするね」
と言ってさっさとドアに向かう。
「それじゃ、行って来まーす」
とうれしそうに出て行く。

「やれやれ」
とジェラードはため息をつく。
「いいんですか?」
ギルフォートが訊く。が、ジェラードはゆっくりと頷いて言った。
「構わんだろう。今回は坊やの出番はないのだし……」
と手にした葉巻を灰皿に押し付けて消す。丁度窓の下では、ルビーがホテルから出て行くところだった。
「あれは、ほんとにいつまで経っても子供だな」
ジェラードは駆けて行くルビーの後姿を見ながら回想する。


 ジェラードが初めてルビーに会ったのは彼が15の時だった。印象としては、まるで痩せっぽちの小さな人形だった。どう見ても15には見えなかった。事情があってずっと病院にいたという事だったが、その扱いには疑問を感じるような事ばかりだった。彼は極端に体力がなく、栄養失調寸前の酷い有様だった。身体中に体罰の跡が有り、何もかにも怯えていた。

彼の運命を大きく変えたのは、病院長に付き添われ、外出した際に起きた不慮の事故だった。二人の人間を殺めてしまった彼は行く当てもなくさ迷い、酒場のピアノの音に惹かれてそのドアを開けた。運命の扉のドアを……。

その酒場の主人は『グルド』のメンバーだった。彼は、そこでルビーのピアノの腕と組織に適合する素養を見出し、ボスであるジェラードの所へ連れて来たのだった。始めは使い者になるかどうかもわからなかった。組織の中で生きて行くには、ルビーはあまりにも体力がなさ過ぎたし、神経は細過ぎたし、何より学習障害が彼の将来を悲観的にした。が、それでもジェラードは彼の才能を愛した。ピアノの腕を買い、娘のエスタレーゼの遊び相手として彼の家へと引き取る事にしたのだ。が、そこで過ごしていた何ヶ月かの間にジェラードはルビーのもう一つの才能に気づいた。やり方によっては使えると判断したジェラードはすぐにギルフォートを彼の教育係に抜擢した。

彼は、『グルド』の中でも随一のスナイパーであり、身体能力知的能力共に比類なき男だった。ルビーを初めて見た時には、あまりに幼く弱々しい子供だったため、彼は教える事を拒んだが、底知れない力と芯の強さを知るとその才能を開花させるための努力を惜しまなかった。そして、様々な試行錯誤を繰り返した結果、ルビーは、ギルフォートに継ぐ『グルド』のナンバー2という位置を占める程になったのだ。が、学習障害の方はどうにもならず、その見てくれの容姿と知能の方は未だに幼いままだった。そのせいで、組織の者達にさえ見くびられている節も多々ある。が、当の本人は一向に気にする様子がない。ジェラードは、そんなルビーがかわいいと思っている。思考が幼い分、扱いやすいのだ。彼の気に入った物を与え、望む事をさせる。それだけで彼はジェラードを信じて付いて来る。何処までも従順なお人形ちゃんでしかない。

(可愛がってやればなつく。褒美をやれば従順に命令を聞き、仕事をする。疑う事も知らず、反抗する事もない。全ては私の手の中で泳ぐ忠実なるペット……)
ジェラードは僅かに唇の端を上げて微笑する。
(全ては私の物だ。全ては……)
隣に立つ銀髪の男。無表情なその横顔を見ながら、ジェラードはゆっくりと顎を撫でる。
(ルビーも、ギルフォート、おまえさえも私の手駒の一つに過ぎない……私の大いなる野望を果たす為の布石でしかないのだ。が、今はまだその時期ではない。焦らず、じっくりと時を待つ事にしよう。それまで、大いに私を楽しませておくれ。私のかわいい坊や達……)
ジェラードは書類の一枚をくしゃりと丸めて灰皿の中で燃やした。その煙が彼らの間にゆっくりと立ち込めて行く……。そして、窓の向こうの景色を霧のように包み隠していき、やがて全てが消えて行った。


 「わあ! かわいいね。赤い金魚さんだ」
少女が持っていた透明なビニール袋の中で泳ぐそれを見てルビーが言った。
「うん。本当にかわいいの。お兄ちゃんも思う?」
「思う、思う」
ルビーはニコニコと頷いた。
「そこの広場でお祭りをやってるの。お兄ちゃんも行く?」
「お祭り? それは素敵! 僕、この街に来たばかりだからよくわからないんだ」
「じゃあ、わたしが案内してあげる」
と少女はルビーの手を取って駆け出した。
「そこで金魚を配ってるの。早く行けば、お兄ちゃんももらえるよ」

二人は河沿いの遊歩道を駆け抜けた。途中に古い教会と警察署、それに小さな店が幾つか並んでいるその裏に公園があった。そこで小さな催しが行われていたのだ。おもちゃや洋服やアクセサリー等のバザーとポップコーンやアイスキャンディー等の食べ物系の屋台が並んでいる。あちこちでパントマイムやストリートオルガンのパフォーマンス等もやっている。ルビーはうれしそうにあちこち見て回っては歓声を上げた。しかし、金魚はもう全部配り終えてしまっていた。
「残念だったね、お兄ちゃん」
少女が言った。
「うん。でも、代わりにいい物見つけたし、ここを教えてくれてありがとう」
とルビーは袋に入れてもらった人形やままごとセットをカチャカチャさせて言った。

「そうだ。いっしょにポップコーン食べようよ。それにキャンディー。僕ね、いちご味のが好きなんだ。君は?」
「シェリーはオレンジが好き!」
と少女は言って、それから慌てて言った。
「ううん。でも、いいの。シェリーお金持ってないし……それに、ママや学校の先生が知らない人に物をもらっちゃいけないって……」
「でも、僕達はもうお友達でしょ?」
ルビーが言うと、女の子もうれしそうにうんと頷いた。それから、二人はそこを出て遊歩道のベンチに座ってキャンディーを食べた。そして、ポップコーンを食べながら歩き、シェリーのお気に入りの場所へ連れて行ってもらった。それは、警察署の裏手にある空き地だった。表通りにはかなり家が建っていたが、そこはまだ広々とした野原が広がっていて野花も咲いている。土と緑に囲まれたちょっとした憩いの場だった。

「ここには滅多に人が来ないから、いろんな空想をして遊べるの。ここはアルプスの花畑よ! とか、ここは美しいお城がある庭なの! とか……」
「そう。ここはシンデレラ城だよ。君は舞踏会に招かれた姫君なんだ。さあ、姫、お手をどうぞ」
ルビーは膝を折ってうやうやしく少女の手を取ると優雅に踊り始めた。正確に軽やかに歌ってステップを踏む。
「ステキ! あなたは本当に王子様なの?」
うっとりとした瞳で少女が見つめる。
「そう。今は君だけの王子様」
そう言ってルビーは微笑する。

「本当にすてき……それにいい匂い……あなた、花の匂いがするわ……もしかして、あなたって……」
少女がそう言い掛けた時、その手に持っていた金魚の袋が落ちた。
「あっ!」
と彼女が叫んだ時だった。その袋が空中で止まった。そして、ゆっくりと宙を泳いで少女の手に戻る。少女はポカンとして金魚と、それからルビーを見て言った。
「あなたがやったの?」
「うん。でも、これは僕達だけの秘密だよ」
とそっとその唇に人差し指を押し当てた。少女は神妙に頷き、それからニッコリと笑った。

「そうだ。この袋じゃ金魚さんがかわいそうだから、このボールに入れてあげよう」
とルビーは言って、さっき買ったおもちゃのお皿の中から一番大きな緑のサラダボールに金魚を移した。その中でスイスイ泳ぎ回る金魚を見て少女は喜んだ。それから、二人はそこにままごとセットを広げて夕暮れ近くまで遊んだ。シェリーは7才で近所の小学校に通っている。けれど、両親は働いていて遅くまで帰って来ないし、近くにはあまり同じ位の年の子供がいない為、いつも一人で遊んでいるのだと言う。
「僕もだよ。僕も大抵は一人なんだ」
人形を持ってルビーが言った。
「お兄ちゃんも? 寂しいの? なら、シェリーがいっしょに遊んであげる。そしたら、もう寂しくないし、金魚さんも寂しくないでしょ?」
「そうだね。また、明日もここで遊ぼう。それと、僕はお兄ちゃんじゃないよ。ルビーって名前なんだ」
「素敵な名前ね。それじゃ、ルビー、約束よ」
「うん。約束」
夕暮れの光の中で赤い金魚が美しく輝いていた。


 そして、次の日もルビーはそこに出掛けた。二人で仲良く遊んでいると巡回の警官が来て彼に話し掛けて来た。
「君、この辺ではあまり見掛けない顔だけど。……」
「僕はルビー。4日前にこの街へ来たばかりなんだ。それでジェラード達とホテルに泊まってるの」
「ホテルって?」
「名前は、えーと、何だっけ? 白い壁とガラスのドアがあって、ゲームは全部やっちゃったからつまんなくなっちゃって……それで、僕、ここでシェリーとおままごとしてるの。ねえ、おじさんもどう?」
と赤いプラスチックのお皿に盛った泥ダンゴをキラキラした瞳で差し出す。年は14、5才に見えたが、知能の方は幼いようだ。警官はやさしく返事した。
「ありがとう。でも、おじさんはまだお仕事の途中だからね」
と言って慈愛に満ちた微笑を浮かべ、慎重に尋ねた。

「それで、君は何処から来たって?」
「ドイツ。フランクフルトからブーンって大きな飛行機に乗ったんだよ。それでパリにも行ったの」
と身振り手振りでオーバーに話す彼。
「ふーん。それで、君、年は幾つ?」
「22」
「本当に?」
警官は驚いた顔で訊いた。彼はどう見ても幼かった。見掛けも、言動もだ。
「ホントだよ。僕っていつも子供に間違えられるの」
とルビーが不満そうに言った。

「そう。それじゃあ、もう学校は卒業したんだね?」
「学校? ううん。してないよ。僕、学校は行っていないんだ。3回1年生をやったけど全然うまく行かなかったの。それで、父様が怒って母様は泣いたけど、僕には仕方のなかった事なんだ」
「そう。それでお母様は? 何処にいるのかな?」
「……死んじゃった」
そう言ってルビーはシュンと俯いた。
「僕が10才の時……僕を庇って母様は死んだの……もう、何処にもいないの……会えないの……。どうして? 僕、こんなにも母様の事が好きなのに……大好きなのに……!」
と言って泣き出す。慌てて慰めようとする警察官にシェリーが詰め寄る。

「あー! 泣かしちゃった! お巡りさん、ルビーをいじめちゃダメでしょ?」
「あ、ああ、すまない。悲しい事思い出させちゃったようだね」
とルビーを覗く。
「母様は天の国に行ったんだって……もう、そこには痛みも苦しみも悲しい事も何もないんだって……なのに母様は笑わないの……いつも悲しい顔で僕を見るの……僕が悪い子だから? 母様は天国でも幸せになれないの? ねえ、教えて? 誰か僕に教えてよ」
ルビーは泣きながら胸を押さえた。銀色のペンダントがジャラリと揺れる。その冷たい感触が手の甲に触れる。
「写真もないんだ……だから、僕、母様の事ずっと忘れないようにと思い出して……でも、母様はいつも苦しそうで……悲しい目で僕を見るの。笑ってくれないの……僕はいつも母様に笑顔でいて欲しいのに……あいつのせいで……!」
感情が込み上げた。

「ルビー? ルビー、泣かないで……大丈夫だから……わたしが側にいてあげる。ずっとルビーの側にいてあげるから……」
小さなシェリーの手が彼の冷えた心を温めた。
「いい子ね。ルビー。泣いたらダメよ。わたしがルビーのお母さんになってあげるから……ずっと守ってあげるから……」
少女は真剣に訴えた。それからキッと警官に向き直って言った。
「どうしてルビーを泣かすの? 彼はいい人よ。いっしょに遊んでくれるの。わたしのたった一人のお友達なの。だから、彼をいじめないで……」
と言って少女も涙を流す。
「ごめんよ。ただ、最近は、この辺も物騒になってね。小さい子供を狙った犯罪も増えてるんだ。ついこの間も隣町で小さな女の子が被害にあった。だから、この街でも警戒しているんだよ」

「わかったわ。学校でもそう言ってた。けど、ルビーはちがうわ」
「そうだね。そうかもしれない。だが、念の為、泊まっているホテルを教えてくれないかな?」
「ホテルは……」
と言ってルビーはハッとした。
「これに……ギルにもらったこれに書いてあるの」
とペンダントを渡す。警官がそっと蓋を外すと中からメモが出て来た。そこに電話すると、ジェラードが出て事情を説明してくれた。彼らは仕事の取引の為ここに来ているという事、そして、ルビーが負っている傷や心の病の事も……。それで、警官も納得した。
「では、私はこれで。二人共あまり遅くならないようにね」
と言って帰って行った。

「どうでした?」
警察署へ帰ると同僚の警官が来て彼に尋ねた。窓からは、空き地とそこで遊んでいるルビーとシェリーの姿が見える。
「ああ。あれはホテルフリッツに泊まっている客だよ。彼の保護者とも話したんだが、特に怪しい様子はないようだ」
と年輩の警官は言って沈黙した。何となく沈んだ様子の彼を見て、同僚の警官が訊いた。
「何か引っ掛かるような事でも……?」
「いや」
と彼は首を横に振った。
「真っ直ぐでいい目をしてたよ。あれは犯罪者の目なんかじゃない。だが、気の毒に……彼は社会ではなかなか適応して行けないだろうね。純粋過ぎてさ」
「ハア」

とその時、デスクの電話が鳴った。
「はい」
と出た警官の表情がたちまち強張って行く……。再び少女が狙われたのだ。二人の警官は慌しく現場に向かった。窓からは、まだルビー達の楽し気な笑顔が遠くに見える。警官は妙な胸騒ぎを覚えて二人の保護者に連絡し、向かえに行って欲しいと頼んだ。

果たして、まもなく二人の保護者が空き地まで向かえに来た。シェリーは母親に抱きつくとうれしそうにルビーを紹介した。それから、ルビーも向かえに来たギルを紹介する。そして、二人は別れて行った。

「ギルが迎えに来てくれるなんてうれしいな」
ルビーがピョンと石段を渡りながらニコニコと言った。
「殺人事件があったそうだ」
無表情のままギルが言った。
「殺人?」
「ああ……この周辺では最近子供を狙った事件が増えているとかで、警察でもパトロールを強化しているらしい」
「それで、さっき僕の所にも来たのかな?」
「だろうな。見掛けない奴が小さな女の子と二人だけでいたら怪しいだろう」
「どうして? 僕、何も悪い事なんかしてないよ。あの子とおままごとをしていただけだもの」
と彼の周りをスキップしたり、段差に飛び乗ったりして付いて来る。
「確かにな。警察から丸見えの場所で犯罪に及ぶような奴はいないだろうよ」
「アハハ。あそこって丸見えなの?」
とルビーが楽しそうに訊く。
「ああ。だが、気をつけろ。つまらない事で警察から目をつけられたりしたら厄介だ」

「わかった。気をつけるよ」
としんみりと言った。かと思うといきなり、あっと声を出し、道の向こうへ駆けて行った。
「おい、待て! 何処へ行く?」
と慌てて後を追うが間に合わない。彼はもう向かいの店の中にいた。
「金魚さんだ」
そこは小さなペットショップだった。きれいな熱帯魚や鳥や小動物等がいる。
「生き物なんぞ買わないぞ」
真っ白なハムスターやウサギのケージを見ているルビーに釘を刺す。
「わかってるよ。でも、金魚を一匹買って帰りたいの。明日シェリーにプレゼントしたいんだよ。いいでしょう? シェリーの金魚さん一匹だけだから寂しいの。お友達が出来たらうれしいでしょう?」
「別にいいんじゃないのか? 一匹でも……」
「ダメだよ! 一匹だったら寂し過ぎるかもしれないもの。僕はもう寂しいのいやなんだ。独りぼっちで誰もいないなんて……また、あの地下室にいるような気がしていやなんだよ!」
と言ってギルを押し退け反対側の棚の通路へ行く。
「地下室か……」

ルビーにとってそれは辛い思い出だった。彼は長いこと閉じ込められていたのだ。暗く冷たい地下室に……。そこに彼の求めるものは何もなかった。辛うじてそこに蓄えられていた食糧とワインだけで彼は生き延びた。小さな窓から差し込む月光。心の翼でさまよいながら、彼はそこで宇宙の深淵を見たのだ。
「それで? どれを買う?」
ギルが言った。
「あの赤い奴」
とルビーがうれしそうに指差す。そして、彼は赤い金魚を一匹だけ買った。